仁は意識が薄くなっていく中で、閉じた眼の奥に、この花の道を歩きつづける自分の後ろ姿
が見えたような気がした。顔を上げ、ただ歩いていく。桜の花びらが雪のように散る中をゆっくり
と遠ざかっていく。
――そうか、そういうことだったのか……。
仁は徐々に薄れていく意識の中で思っていた。そうか、自分は、ただ歩いていきたかった
だけなのだな、と。何かを手に入れるためでもなければ、何かを成し遂げるためでもなく、ただ
その場に止(とど)まりたくないという思いだけで、ここまで歩きつづけてきたのだな、と。
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翔吾は、運河の土手の桜の花の道を歩きつづける仁の後ろ姿を見て、声を掛けようとした。
仁が顔を上げ、ただ歩いていく。桜の花びらが雪のように散る中をゆっくりと遠ざかっていく。
声が出ずに、そのまま仁が遠ざかって行き、翔吾はうつむいたままで目が覚めた。
仁が病院を出たその日の夕方だった。
「大丈夫?少し、うなされてたけど。」 ベッドの脇で付き添っていた佳菜子が小さくつぶやいた。
「広岡さんが、行ってしまった。声が、出なかった。呼ぼうとしたけど。俺は…。」 翔吾は、ぽつり
とそう返した。
肩を震わせ始めた翔吾に佳菜子はガーゼのハンカチを持たせたまま、しばらく口を結んだまま
窓の外を眺め続けた。
或る意味、孤独な環境で育った若い世代の2人を親の代わりに導いた存在は、こうして、太陽
系第三惑星の三次元マトリックスの世界の上を、ただ寡黙のまま、歩き去って行った。
運河沿いにあるベンチで「どうかしましたか」と仁の様子を心配して声をかけてくれた通りすがり
の人に、仁は最期の力で病院の診察券と弁護士真田公平氏の名刺をなんとか取り出して気
を失い、救急車が呼ばれ、仁は翔吾の世界戦の後に検査を受けるはずだった病院に運ばれ、
そこで延命治療を受けた結果、死亡を確認された。仁が翔吾の居る病院を出たその日の夕方
だった。
結果的ではあるが、仁は真拳ジムから世界チャンピオンを出してジムを円満に終了させ、関わ
ってきた人々の生活を保障する為に、日本からアメリカに出て行き、ジムに関わるずっと前から、
(おそらく母の胎内にいる時から)、それに必要な、それなりの経過と因果を経て心臓を患った
ことで日本に帰還し、八犬伝の丶大法師の様に縁者を集め再生に立ち合い、他界した。
仁が遺産の半分をアメリカのスポーツ障害者支援団体に寄付することは、アメリカでの極貧
生活から実業家となった生活が、哲学とメイソングローバルカルト宗教裏金麻薬乱交盗撮恐喝
弱者人身売買資金洗浄の繋がりについて気が付いていた仁にとって、どれだけ得るものがあっ
たかということを示す指標の一つかもしれなかった。
担当医師から、弁護士に連絡がされ、真拳ジム会長の令子と息子の弁護士の公平が病院に
呼ばれ、令子から佐瀬、藤原、星の3人が仁がいる病院に来るように呼ばれ、仁の遺言の内容、
特にチャンプの家と土地が仁の名義で買い取られ、残りの遺産を残された人々の老後と将来に
使うことを聞いた後、3人は黙って目を拭った。
手術から2週間後に翔吾は退院して、チャンプの家に帰った。翔吾は〇・〇一でも視力があった
ため、視力は落ちたものの、仁による左利き訓練右脳強化の効果と、世界チャンピオンとなった
最後の試合の時に、時間軸を超えた異次元空間を観てその存在を識ったことで、不可思議な
ことに、佳菜子程ではないが、確かに仁の気の様なものまで感じ取る第六感の「勘」(心眼)が
鋭敏になっていた。
空いているはずの椅子に時々ではあるが、確かに誰かが座っている様な気が(素面でも)する
のだ。「広岡さんは、約束を守って、ここに帰ってきている。」 佳菜子はそう言って、微笑んだ。
仁の葬儀後から翔吾が退院する2週間程までは、佐瀬、藤原、星の3人も、仁の気を感じ取って
いた様で、「いないのに、いる気がする。不思議だが。変だ。」などと何かとお互い話していた。
が、翔吾がチャンプの家に戻ってからは、その話も急に少なくなり、なぜか閻魔大王のお裁き
を受けるという没後三十五日以後は、「いないのがいなくなってきた。河を渡り切ったな。」という
様な話に徐々に変わっていった。
とはいえ、翔吾がチャンプの家に戻った後で、佳菜子と一緒に佐瀬、藤原、星の3人から仁の
遺言を聞き、新たなアメリカのホテル修行の為に渡米する計画を立て始め、藤原が「仁のカレ
ー」に挑戦しながらも、星に味見で顔をしかめられ、佐瀬も菜園仕様になった庭を耕し、猫の
チャンプの日向ぼっこの日課が戻る。
仁の四十九日が明けて、真田令子会長の父の墓に総勢7名で墓参りをし、令子は、仁が他界し
た後に世界チャンピオンを出した真拳ジムを閉鎖し他のジムのサポートを始め、息子の弁護士
の公平と、仁の遺言に従って翔吾と佳菜子の渡米に必要なサポートも行う予定であることを
墓前で手を合わせることで報告した。
そして、仁の卒哭忌の後に初渡米した翔吾と佳菜子は記念のロスの街を手を繋いで歩き、
進藤不動産には新しい事務員が着任し、「社長、アメリカから絵葉書が来てますよ」と店主に
それを渡し、“ロスから飛行機でマイアミ経由で行きました。佳菜子” と葉書の余白に書かれた
面にはキーウエストの灯台と船のマストによじ登る多指症の猫軍団の写真があった。
翔吾の父は、翔吾の世界戦のDVDをジムで何度も見ながら、「良い試合だった。猫の様な俺の
出来婚でいきなり父になってしまった想定外逆順序左巻き後退の法則で、俺の家庭での人間
関係に父子関係以上に諸々の障害があったが、最終的に広岡に頭を下げて、一人の人間と
しての翔吾の未来を託した俺の判断はやはり正解だった。」と悦に入る日常である。
参考:羊と猫と私 新聞小説「春に散る」完… 花の道 三十五 505 (16/8/31)
ttp://hitujitone.exblog.jp/23169355/